「明鏡橋物語」 |
1.川遊び |
明鏡橋の下流がおらだの水遊び場だった。夏になって駐在所の巡査さんの制服が、うえだったか下だったか忘れたが、白い制服に変わると水遊びをしてもいいという合図だった。これより早く泳ぐと学校で 「だれだれさん川で遊んでいた」 て、つげ口みたいのされて先生からごしゃがれたんだな。でも待ちきれないで遊んでいたな。 ちょうど明鏡橋の下流は大隅の水遊び場だったが、それと相対して反対側に、栗木沢の水遊びがあった。当時最上川の水遊び場は和合と川通、西船渡と助の巻、どこも必ず相対してあったものだ。 最初のうちは泳ぐの一生懸命だが、そのうち休むものや、体あぶるものもいるな、女子衆なんか帰ると必ずっていいほど、けんかよ。けんかはまず悪口からはじまった。その言葉も決まってんなよ。 「向いのやろべら、アンコロ食うか、栗食うか。栗まだうまねぇ、アンコロ食って待ってろ」 アンコロって、飴玉や、アンコロ餅のことでねぇな、馬のくそのことだべ。うまねぇてのはまだ熟してないてことだ。こんな悪口は栗木沢の人も使ったな。どこの部落でも使ってたんじゃないか。そうして休んでいると、川遊びに使う木の根や、木の板、あいづら向かいに持っていぐなよ。そんでけんかになったけな。木の根とか木の板は、川に投げたり乗ったりつかまったり、さまざまして遊んだなよ。こんな木の板をおいて置くと、こそっと持っていぐなだけ。 「見でだげんとな、潜水艦のようにくぐってきてよ」 て、とられだ人は言い訳していた。そうすると、今度は取り返さんなね。 |
2.出会い |
そうすっと、今度は最上川をはさんで栗木沢と大隅で石投げよ。俺はまだ小さくて石投げても届かねから、大将見たいのに石を渡す係だったな、雪合戦のように。そだな石当たらなかったけどな。それに、石当てても悪いってわかってたから、けんかしたって限度があってな。 例えば兵隊ごっこしたってもルールがあって、ここから下は切って悪いとか、敵、味方分けるにもバランスよくガキ大将が分けてくれたものよ。同じ組だけでなく入れ替えしてな。ルールはあったんだ。 石投げが終わると今度は両方とも明鏡橋まで走って行った。そこでまたけんかよ。でも栗木沢側は県道あったので早いけど、大隅側は崖みたいの登っていくので遅いのったな。でも互いに越境しないで橋の両側からの言い合いになんなだ。明鏡橋が大谷と和合の境になっていたっけよ。 境といえば、こんなことあっけ。青年団の頃は夜になると和合小学校のグランドに電灯つけて、そこで三段跳びや高跳びの練習したんだ。そして長っ走り、長距離走の人なんかは、大谷や宮宿に走って行って、帰ってくるのが九時頃ったな。そして明鏡橋の上で川風に吹かれて汗をふいたり休んだりしたもんだ。すると大谷側からもここさ休みにくるから、若い男女の出会いの場になったのったな。そこでカップルになると、この橋の上だと隠れる所何もないから、いいカップルはダッキの方に行ったんじゃないかと俺は思うなあ。 この橋で知り合って結ばれた人は何人もいる。そんな人にはこの明鏡橋は大切な橋だべ。なんとかこの橋は残さんなね。 |
3.別れ |
一番思い出あるのは出征兵士よ。昭和10年頃だったからまだ支那事変始まったころだね。そのころは宮宿から大隅の水浴び場まで送ってきたのだな。ちょうど明鏡橋の架け替え工事の頃で、出征兵士は渡し舟で渡ったもな。そこで「バンザイ、バンザイ」て見送ったものだ。宮宿の人が出征すると、小学生は四ノ沢の杉の木のあるところで別れ、高等科以上の人は明鏡橋まで送りにきた。先頭に「祝出征」て書いたのぼりを持って何人も並んで見送りにきた。奉公袋ての下げて、寄せ書きした日の丸の旗持ったりしてな、なかには、軍艦旗なんて派手なの持っていたな。 出征兵士は、こう敬礼して、あいさつは 「一意専心軍務に精励し、皆様方の期待の万分の一にも答えるつもりであります。行って参ります。」て、いかんなんねいのだな。 子供のころは、この言葉が付き物だと思っていた。川縁で「バンザイ、バンザイ」て日の丸が振られ、舟の上からも手が振られ、あの最上川の美しい川面に、船に乗っている兵士の振る日の丸が写るんだね。波がキラキラ揺れて白と赤の日の丸も揺れて美しかった。本当は喜んでいらんなんねいのだが、その奥さんなんかは喜んでないな。涙を見せまいとして難儀してたであろうと、子供心に思っていた。俺ませていたので。でも戦争反対なんてなく、よし俺もって見送ったものだ。明鏡橋できてからは、手前に土盛った台がありそこに出征兵士立って、見送った。クラリネットとか青年団の大太鼓、小太鼓鳴らして、俺も昭和19年3月だった。もう帰ってこれないと思ってた。宮宿も五百川の人も皆そう思って明鏡橋を渡ったと思うな。 |
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